思い出 弟の結婚式 2020/10/25

思い出 弟の結婚式 2020/10/25
母は50才後半、そろそろ物忘れが始まる頃か、弟は東京で自動車修理工の修業をして故郷で開業をしていた。昭和48.9年頃である。
結婚式当日の事、朝当時の式は家庭か何処かの会場を借りて自分たちで用意するのが一般的であった。
借りた場所に向かう時に弟が「花束は?」と母に聞くが母は忘れたのか、聞いていないのか用意がない。そこで親子で言い争いをしている。それを聞いていた私が「いいじゃない、花束がなくったて、今更間に合わない」兎に角辺鄙な田舎の事、花やは隣町にしかないのである。
その後も草履がないとか、センスがない、など まだボケるには早いだろうと母を見て、その時は記憶力の低下かと思った。
「花束贈呈は親に子どもが感謝するんだから、自分で用意するものだろう」と私が弟に言うと「それはそうだ」と憮然とした答えだった。
母の認知症は意外に早く訪れた。田舎の事ゆえ専門医などいないから、どの家族でも歳だから仕方がないと内内であきらめる。母は70才を越えるころから、生きる意欲を無くしたように暮らしていた、私にはそう見えた。40代からの民謡の師匠として何十人ものお弟子さんがいた頃の面影はなく、寂しい晩年であった。
古い100年以上の住居の炬燵にボーと座っている母を思い出すと今でも涙がうっすらと浮かぶ。
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温泉駅にある観光案内所で 2020/10/19

温泉駅にある観光案内所で 2020/10/19
だいぶ前の今頃の季節である、ある温泉ホテルで同級会があった、その帰りの駅でのことである。
私は不覚にも部屋のキーをフロントに返さずに駅まで持ってきてしまった。
慌てた、発車時刻まで時間がない。そこで駅構内にあった観光所に訳を話してそのキーをホテルの人に取りに来てもらえないかと頼んだ。あつかましいお願いかとは思ったが、、
中年の女性が“ご自分でやって下さい”と つっけんどう に言う、電話番号を暗記しているらしくスラスラと言う、が その数字を並べられても私の頭に入るはずがない。もう一度聞くと、するとその女性は不機嫌そうに席を外してしまった。
私はあっけに取られて、もう一度大きな声で聞くと、今度は男性職員がメモに書いてくれた。
だが電車の発車時刻が迫っているが、まだ大丈夫と思い携帯を出してホテルに電話をすると、ホテルマンは気持ちの良い返事で、駅の観光所に預けて置いてくれとの事
なんと不親切な案内所であろうかとこの不親切さに怒り心頭、一緒にいた同級生もその後の昼食会の時に話題になり「あの時発車時刻に間に合ったかい?」と聞かれてその時の対応に二人で憤慨したのだった。
Img_20201003_160435 近くの緑道

 

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思い出 紅白の布地を掛けた嫁入り道具 2020/10/13

思い出 紅白の布地を掛けた嫁入り道具 2020/10/13
私が昔、働いていた会社は川越街道沿いにあった。二階からは通る車が見える。時々その道を眺めては気晴らしをしたり、息抜きをしたりしていた
ある時、紅白の布地を掛けた小型のライトバン(トラック)がヒラヒラとその道を通りすぎるのを見て、これは嫁入り道具を運んでいると思った。
娘にもこうして送り出したいと思っていた母親だったが娘は荷物はいらないとわが心を知らずに、あっさりと嫁に行ってしまった。
もうすでに28年昔の話である。
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思い出 カレーライスとオムライス 2020/10/5

思い出 カレーライスとオムライス 2020/10/5
昨日カレーライスを食べた、そこで思いだしたのがドーム型オムライスである。
 大分以前秩父の芝桜が有名になりかけた頃の話
芝桜見学の帰りに何とか温泉施設に行き、昼食を食べた。私はオムライスを頼んだ。
連れ合いは訳の分からぬところではカレーライスと決めている。当たり外れがないそうである。
さて出てきたオムライスの卵は紙のように固くドーム型で横からほじくるとその中は空洞がある。卵はまるで堅紙のようだった。どうやら冷凍を解凍したようである。味は覚えていない。
それ以来オムライスのサンプルなど見るとその話となるが、その後まだ一度もオムライスを店で注文した事がない。
我が家のカレーライスの残りはカレーうどんになったり冷凍になったり何度も食卓で大活躍である。
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 思い出 信州のソバや 2020/9/29

 思い出 信州のソバや 2020/9/29
上高地に入る少し手前のソバやだった記憶がある。30年位前の事
その店に入るとヨロヨロとした老婆がしゃがれた声で「いらっしゃいませ」と言ったとたんに箸立てを倒した。大丈夫かと、いぶかったが入ってすぐ出るのも何だからと様子を見ていると、老婆はその箸立てを奥に引っ込めてしまった。
どうしようかと思ったがとりあえずメニューを見た。どれも安い、今時珍しい店と思った。
老婆は「若い者が出払っていますんで」と申し訳なさそうに言う
兎に角せっかく入ったのだから食べて行こうと言う事になった。
そして出てきたソバは、なんと美味しかった事か、今でも印象に残る蕎麦屋である。そうそう、私たちが食べてるときに入って来た若いカップルが、出てきた老婆を見て帰ろうとするから、おせっかいにも「美味しい」と一言私が言う。すると帰りかけたカップルは席に戻り注文をしていた。
又信州での事、テレビや週刊誌などに出ている「看板がない」と言う事だから探すのに手間取ったお店を探してやっと入った。
そのお店は思った程ではなく、しゃれた器はなかなかセンスが良いが味はもう少しそして高価であった。
又福島の旧宿場町では葱でソバを食べるので有名との事で、珍しいから食べたがソバよりこれは葱の旨さが勝っていた。自家製の葱との事で葱を褒めて会計した事を覚えている。
その後連れ合いは、素人用本格的道具を買い、手打ちそばを始めた。なかなか上手である。
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思い出 古い梅干し 2020/9/13

思い出 古い梅干し 2020/9/13
私が子供のころ古い梅干が戸棚の奥にあった。私の家は父がマメな人で天ぷらや料理、などをよく作っていた、梅干も父の作ったものである。
その古い梅干しは我が家では忘れられたようになっていた。
しからびて白く粉がふいているように見え気持ちが悪い、到底食べ物にはほど遠い感じがした。
母の妹が娘を連れて遊びに来た、父はその古い梅干の話をすると、叔母は早速興味をしめして、見せてくれと言う。その壺を開けると、とても良い香りがするが私にはどうしても口には入らない が である
二人の客は摘まんで口に入れる、そしてあろうことか、「これは旨い」と大絶賛である、そして土産にその梅干はすべてその叔母の土産となったが後年になって「あの梅干はもうないのか?」と尋ねられた事がある。
懐かしい父の自慢話と叔母の梅干問答は何となく今でも頭の中にある。
叔母というのは戦前、新宿のムーランルージュで女優をしていた戦後は家庭人に収まったが、なかなかの美人であった。我が家で疎開をしていた頃は、疎開先の粗末な玄関に近所の人が見に来たくらいだから、きっと綺麗だったのだろうが、私には当時の伯母の面容は思いだせない。
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思い出 スペインの Mちゃん 2020/9/9

思い出 スペインの Mちゃん 2020/9/9
昔の知り合いに「スペインのMちゃん」と陰で言われていた人がいた、かなりの経済家で、お金を貯めては外国に会社を退職して半年~一年単位で生活をするのが趣味のような人であるが一応は語学の勉強だそうだ。私が知り合いになった時はスペインに向けて貯金中との事でそれは、それは経済家で、着るもの履くもの生活用品全てにおいて、ケチと経済家は違うと思うが、外国に向けて目が向いているから、他人の目など気にならないようだった。
とうとうスペインに行く日が決まった、語学は一応の目標だが、生活を楽しんでくるそうである、そこでハッピイな事が起こればそれで良しとの事、不安はないのだろうか、帰って来た話は聞いてないが、彼女も70才は過ぎているだろう。
今どうしているだろうか、とフト思った。
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思い出 「これより100m」 2020/9/3

思い出 「これより100m」 2020/9/3
西沢渓谷に行った、約23年前の事
軽く考えて出かけた西沢渓谷、後になって知ったのだがハイキング中級となっていた。が 行ったときは軽いハイキングと思った。
実際行ってみるとかなりの距離があり渓谷を見て一回りをする計画、途中に登りがある。疲れを感じてきた。すると看板が立っている。「これより100m」わぁ嬉しいと思ったが行けども行けどもその中間点まで100mの道は辿り着かない。疲れ果ててやっと小さな平地に出る。いったいアノ100mはどういう計算かと連れ合いと話ながらの帰途となったが、どうやら高低差の100mのようだった事に気が付いた。
そして今度は長い帰路、ヘアーカーブの続く長い道を疲れたを連発しながらの帰り道を歩いた。途中車のキーのないのに気が付いたが幸いな事に駐車場に落ちていて、土産店に届けられていた。
景色、滝や紅葉はきれいだったが100mの高低差と車のキーは忘れられない思い出である。その時の写真を捜したが見つからないが何処かにあるはず。
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エゾアジサイと書いてあった

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思い出 記憶の玄関 2020/8/11

思い出 記憶の玄関 2020/8/11
その夜、疎開先の玄関に出て、冷たい空を見つめる、飛行機のような物体が数基飛んでいた。暗い中に音と響きが記憶に残る。戦争末期であろう、私たち一家は昭和19年の春ごろに東京から栃木県に疎開した。
玄関と言っても硝子戸と部屋の堺もない程の粗末な家である。その玄関、今でも何かの夢の中に出てくる。
ある時、その玄関に、夜中男性が侵入してきた、付き添え男性がしきりに侵入男性を押さえている、なんと 酔っ払いのこの男性はこの町の警察署長さんである。父はその署長さんの前に眠そうに正座していた、そして署長さんが「玄関には鍵をかけておくように」と言ったのである。だが玄関には鍵など無かった記憶がある。
玄関の前はすぐ大通りになっていた。食料不足が続く毎日に父は玄関先に小さな木枠に土を入れて菜園を作った。父は名案をいたり の気分に違いないが、その小さな芽が出たか出ないうちに壊されることになった。警察から道路に、出ているので違反と言う事である。どいう訳かその玄関は私の戦争に関する思い出が多い。今はその家はないが、その場所に行くと、「この辺りが玄関」と孫や息子に言うが私だけしか知らない玄関である。

 

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思い出 騙された1000円、1000円 2020/8/9

思い出 騙された1000円、1000円 2020/8/9
連れ合いが行った台湾での事。40年は経っている昔の事。
バスの駐車場で、若いお姉さんが一緒に写真を撮ってくれと満面の愛嬌を振りまくので、それに誘われて撮った。ここまでは、外国に行った緩んだ気持ち。すると、1000円 1000円と言ってよくわからぬ日本語を使う。「写真を撮ってそのモデル代」と思ったという。だが、「住所をこの紙に書け」と紙を出すから書いた、その出来上がった写真を送ってくれるのかのような感じがしたと言う、慌てて書いたので間違った住所でも書いたか?
そして1000円を日本円で払った。それから何カ月たっても写真は送られないから やっと 騙された と気が付いた間抜けな日本人観光客である。今でも何かにつけて1000円、1000円は我が家の珍言葉になっている。
だまされるのもこの位なら良いが、住所まで書いたのだから、なんとまあ危険を感じなかったのだろうか?とフト思ったおばさんである。

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